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「責任」の所在

「責任」という言葉に対して、あなたはどんな感覚や印象を持っているだろう?

その言葉から受ける感覚にどんなエネルギーを感じ、どう影響されているだろう?


NVC(非暴力コミュニケーション)トレーナーであるミキ・カシュタンさんがまとめた『非暴力(のための)コア・コミットメント』を学ぶ会の今朝のテーマがきっかけで、私はあらためて「責任」について感じ考える機会と、一つの明確な氣づきを得たので、忘れないように文字にしておこうと思う。


まず最初に訪れた氣づきは、自分自身の「責任」という言葉に対するジャッジメントだった。


私は「責任」という言葉を言ったり聞いたり見たりすると、「ねばならない」を課せられたような強制や義務感、重苦しさや緊張感、型にはめられるような不自由さ、あるいは、義務を負っているがゆえの覚悟やパワフルさ…を感じていたんだなぁ…と氣がついた。


そしてそう認識したとたん、「それは私の解釈であって事実とは限らない」と氣づきハッとして、フッと肩のチカラが抜けてラクになり、何だか丹田から胴体がすーっと上に伸びていくような心地よさを感じた。


つまり私はこれまで無意識のうちに、「責任」という言葉に出合うたびにストレスを感じていたことに氣づいたのだ。(恐ろしや~笑)


その理由は「責任」の「責」の字に原因していたようであることにも氣がついた。今までの人生経験による思い込みもあるのだろうが、それも含めて、どうやら「責」の字がトリガーとなって重苦しいエネルギーを感じ、最初に書いたようなネガティヴな印象になっていたらしい。(微細すぎて、今までまったく氣づいていなかった)


参加者の一人から「“責任”というものをどうとらえていいかわからない」というような意見が出たことがきっかけで、この会の主催者であるシルバーマン恵子さんが、責任を英語で捉える、という発想を提示してくれた。


「責任=responsibility=レスポンス・アビリティ」。つまり「責任とは返答能力」と捉えることができる、と。


そう捉え直した時、私の中で「責」の重苦しさが消え、「何に対する返答能力?」…という自問が浮かんだ。


即座に返ってきたのは、「自分自身のニーズ(本質的に必要なもの、魂の望み)に対して!」という自答。


なるほど、「責任」とは、「魂が必要としていることをよく聴いて応答すること」であり、その最初の対象者はいつだって、他の誰でもなく自分自身なんだよな、と思った。(自分が満たされていないまま他者のニーズを満たそうとすると本物さが損なわれ、遅かれ早かれストレスが生じ破綻を招くことは、これまでにイヤと言うほど経験済みだ。笑)


私はNVC(非暴力コミュニケーション)を10年以上学び実践する中で、ありのままの自分を大切にしながら人々とも心を交わし合って共に発展・共創していくためには、「~(他者)のために」とか「~(他者)のせいで」と、自分以外の存在に自分の言動の根拠を預けたり任せたりすることなく、常に自分自身の責任において言動を選択していく必要があることを理解・確信してきたのだけれど、


今朝あらためて「責任」=「レスポンス・アビリティ(自分のニーズに応答するチカラ)」という明確な認識を得て、まるで全身に秋晴れの空が広がったような、スカッと晴れ渡る感覚に包まれた。


すべての命には意識的にも無意識的にも「レスポンス・アビリティ(応答するチカラ)」が備わっていて、それをまず自分自身の魂の望みに応答するために使うと、きっと自ずと他者とも響き合うことになり、連携や発展が発生するのだ。


だからまずは、無限に湧いてくる手段や判断に翻弄されることなく、手段や判断を湧き上がらせている源泉(ニーズ)に想いを馳せ、その源泉の正体を知ることが、レスポンス・アビリティを引き出すパワーになるのだと確認できた。


それを強力にサポートしてくれるのが、NVCでありコネクション・プラクティスなのだ、と。


自分の人生における「責任(応答するチカラ)」の所在は、いつだって自分自身にある。


それを明確に再確認させてくれた恵子さんと、コア・コミットメントの仲間たちと、ミキに、そしてNVCを体系化してくれたマーシャルに、あらためて心からの感謝を送りつつ、わかってもらえるかどうかわからねど(笑)、この発見をシェアします。



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