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 日々旅日記   Essays by Mizuho Hara

   まいにちが 旅。 みんな 旅人。 

*以下は、2005年4月~2006年5月にメーリングリストで配信していたエッセイシリーズ「日々旅日記」➀~⑦です。⑦からさかのぼって➀まで。どうぞごゆっくりお楽しみください(╹◡╹)♡

 

● 『半世紀の旅』⑦ <1> 「甘夏サロン」ができるまで

 

 

「いい海ちゅーのは、いい山がつくりますからね。いい水は山がつくりますから」

 

日に焼けた杉本栄子さんは、そう言って深く光る目で笑った。

 

カラリと晴れた青空の下、潮風を受けながら、高台に並んだ平カゴいっぱいのイリコが陽の光を浴びている。

 

「豊かな山に雨が降れば、ふもとの海には自然に植物プランクトンができて、巻貝が来て、シャコが来て、ナマコが来て、海草ができる。海草があれば、魚もタコも来る。もうこれ以上、人に優しい山を壊すちゅーことはしちゃならんのです。田舎は田舎らしくあればいい。都会にならんでもいいんです」

 

作業用のコンテナを裏返したテーブルの上には、プクプクした釜揚げしらす。しらすがお茶請けなんて、さすが水俣だ。

 

「天日干し”も“無添加”も、私らにしたら当たり前。でも都会はそうじゃなかとですね。イリコを送ったお客さんから『袋に葉っぱが一枚入ってた』ちゅーて文句が来たですよ。

 

おてんとさまの下に広げて海の風当ててたら、葉っぱが落ちることもあります。大騒ぎするようなことじゃなかばってん、都会の人にはわからんとですね。ある店からは、『陳列して売ったらカビが生えた』ち、ビックリして電話がかかってきたこともあります。

 

ふつうは保存料だとかを入れてカビんようにしとるから、陳列できるんですね。店の人も知らんかったって。

 

それからこないだは、『イリコはもう在庫がありません』ちゅーたら、怒られたですよ。『なぜ切らすか』ち。『鹿児島の海へでも行って獲って来い』ちゅーとです。『自分の畑の野菜がなくなったら隣の畑から採ってもよかですか。海も同じですよ』ちゅーたら、『そうなのか』ち。私らにしたらビックリすることばかり。勉強になります」

 

初めてこの地を訪れた去年の春、漁と農を兼業する栄子さんの話に、何度ハッとさせられたことだろう。いや、彼女のみならず、この町で出会った何人もの人々の話に心揺さぶられ、私はここで「甘夏サロン」を開こうと思い立ったのだ。

 

思えばすべての始まりは、世界の旅から帰国した春、突然舞い込んできた1本の転送メールだった。

 

『夏みかんが好きな方へ。

 

私たちは熊本の水俣市で、農薬を使わずに甘夏づくりをしている農家の集まりです。最近、日本人のすっぱいもの離れが激しく、甘夏が売れずに困っています。

 

「自分たちが水俣病で苦しんでいるのに、人様の口に入るものに毒を使ってはならん」という想いで、虫害も病害も薬品を使わず必死で乗り越え一生懸命育ててきた甘夏の木を、もうどうすることもできず、泣きながら半分切りました。夏みかんが好きな方は、どうか買ってください』

 

私は中学生のとき味噌汁にレモンを絞って母に叱られたほど酸っぱいものが好きで、赤ん坊のころ台所まで這って行き、歯のない歯茎で皮にかぶりついていた、というエピソードを持つほどの夏みかん好き。放っておけるはずがない。

 

私からの熱い返信を受け取った「はんのうれん(反農薬連合の略称。現在の「からたち」の前身)」の事務局長・大澤忠雄さんが、達筆な筆書きの巻物のようなお手紙とともに送ってくださった甘夏みかんは、「酸っぱいもの離れ」という言葉がまったく当てはまらないほど充分に甘く、みずみずしく、全身の細胞に太陽のエネルギーが染みわたっていくような美味しさだった。

 

そして私は、このあと遭ってしまった交通事故のリハビリをやっと終えた約2年後、水俣病被害者を原告とする最高裁「関西訴訟」のため上京した大澤さんとついに対面。それを機に自ら今の水俣を肌で感じるべく、大澤さんを頼って現地へ向かったのだ。

 

 

●『半世紀の旅』⑦  <2> 水俣エネルギー

 

 

「水俣での発見をみんなで分かち合いたい!ここにみんなを連れて来たい!」

 

大澤さんに連れられていろんな水俣に触れるほどに、私はそう思って、いてもたってもいられなくなった。

 

実は、「甘夏が好きな方へ」というタイトルの大澤さんからの最初のメールを受取った日は、私の世界6大陸60か国6年間の旅の記念すべきラストデイで、私は旅の6年間と帰国して交通事故に遭うまでの半年間は、文章や講演で自分の体験をもとに「世界」について伝えていたのだが、水俣を訪れ、水俣を知るほどに、私を通してではなく、直接触れて感じてほしい!と、全身全霊で思ったのだ。

 

今年3月、その想いに響いてくれたグッドタイミングの人々が、北海道から九州まで文字通り日本各地から計9名参加してくれて、帰国後開いていたお話会『世界旅人サロン』の初の遠征バージョンとして、大澤さんの息子さん達が営む甘夏みかん畑での収穫体験をはじめ、多様な水俣の魅力を味わうプログラムを盛り込んだ、2泊3日の『甘夏サロン』を開催することができた。

 

泊りがけの遠征サロンは人生初で私には至らぬ点も多々あったが、親戚のようなまごころで全面協力してくださった大澤さんご一家や「自ら楽しむこと」に長けた参加者の皆さんのおかげで、晴れて甘夏のように濃くエネルギッシュな3日間が展開した。

 

水俣病資料館見学。ヘドロの埋立地にできた公園「親水護岸」の散歩。山奥の穴場温泉。ピカピカの海の幸。焼酎のみのみ語らった夜。歌や踊りも飛び出しての最後の晩餐…どれもこれも忘れられないが、ことさらみんなの胸に焼きついたのは、「甘夏ちぎり」や「不知火海(しらぬいかい)クルーズ」。そして、杉本栄子さんを訪ねて話を聴かせていただいたことではないだろうか。

 

「父はいつも言いよったです。『水俣病は“のさり”じゃ』 ち」

 

“のさり”とは、“授かりもの”“与えられたもの”という意味。母が水俣病にかかり、周りから差別されヒドイ仕打ちを受けても、「水俣病は賜りものだから受け容れよう」と言った父。

 

その言葉を胸に刻み、辛くても悔しくても歯を食いしばり、やがてこの病をほんとうに“のさり”として、輝き始めた栄子さん。美味しくてやめられない釜揚げしらすへの箸も思わず止まるほど、彼女の話には去年に増す迫力があった。

 

栄子さんの話に、別の水俣病患者さんの、こんな言葉も思い出す。

 

「ずっとずっと苦しかった。差別され、どんどん病気も出て、舌もしびれ、味もわからんようになって、長―い間、死んだほうがマシだと思いながら泣き暮らしてきました。でもある時、ふと思ったんです。死にとうても死ねんでどうせ生きとるんなら、笑って生きて行った方がトクだって。泣いても一生。笑っても一生。ならば楽しいこと見つけて、この命で、死ぬまで精一杯生きてみようって」

 

私が水俣でサロンを開くことにしたのは、こんな人たちのエネルギーと経験を、そして、この人たちを支えている自然のチカラを、みんなに直接伝えたかったからだ。

 

東京の大学を卒業後、水俣に帰郷して甘夏づくりを始めた大澤基夫くん(大澤家の息子さん)は言う。

 

「水俣の人は、本当に働き者です。海に出れば漁をして、陸(おか)に上がれば畑仕事。いつ休んどるんか不思議なくらい、ほんとによく働くとです。ふつう漁師は海のことしか知らんし、農家は陸(おか)のことしか知らんじゃなかですか。でもここではみんなが両方知ってて、両方できる。そこがほんとに、カッコ良かです」

 

水俣病の発生によって、陸の仕事をせざるを得なくなった漁師たち。皮肉にもそのことで、この地に生きる人々は、他にはない個性と技能を身につけたのだ。

 

しかも私が出会ったのは、水俣病の過ちを二度と繰り返さぬよう、意志と知恵と技術を持って、農薬や化学物を使わぬ農業や、自然に即した漁業を実行している人々。

 

果たして私たちは彼らのように、「水俣病」という過ちを暮らしに生かしているだろうか。「昔の他人事」として片づけ、自分の生活には無関係だと思ってはいないだろうか。

 

 

 

●『半世紀の旅』⑦  <3> ワルモノは誰?

 

 

初めて水俣を訪れたときまず驚いたのは、水俣駅前にチッソがドーンと立っていたことだった。

 

が、この会社が作ってきたのは、プラスチック素材、化学肥料、合成繊維、食品添加物などの石油化学製品。戦後の日常で、私たちがお世話になってきたものばかりだ。

 

彼らが海に毒をタレ流したことや、政府がその不備を許した罪は確かに重い。けれど、この事件の根元にある一人ひとりの消費生活を見つめることなしに、未来は拓けるのだろうか。廃棄物処理システムさえ整えば、一件落着なのだろうか。

 

水俣病の公式発表から、今年(2006年)の5月1日で五十年。今この街は公害をバネに再生した環境都市として表彰され、水俣病は昔話として片づけられようとしている。

 

けれど今も私たちは、毎日スーパーやコンビニでビニール袋をもらい、プラスチック容器を使い捨て、数々の化学製品を買っては、またそれをゴミとして出し続けている。その分が、五十年前なんかよりずっと大量に作られているのだ。水俣のチッソ工場だけでなく、今や中国や、その他世界中の町々で。

 

「最初に発病した姉を、家のいちばん奥の部屋に閉じ込めて、隠して看病したんです。家に水俣病が出たと知れたらどんなヒドイこと言われるかわからんから、家族みんなで必死に隠しました。私はまだ小さかったけど、学校でもゼッタイ言ったらアカンて言われて、黙っとりました。かわいそやったけど、仕方なかった。知れたら村八分にされて、仕事もできなくなるからって。でも、ほんっとに辛かったです。自分も病気が出るんじゃないかと思って恐ろしかったし。姉はまもなく死にました。私たちは何度も泣きました。かわいそうでかわいそうで…今でも涙が出ます」

 

これは東京で「関西訴訟」の最高裁の後のフォーラムで聞いた、水俣病患者の女性のスピーチ。公害は自然や人の体だけでなく、心や人間関係をも破壊した。

 

差別からの開放と職を求めて、九州から大阪や東京をはじめ日本各地へ移住した、たくさんの人々。新しい土地では水俣出身であることを極力隠し、いつ発症するとも知れない病におののきながら生きてきた人々とその家族が、今も日本のあちこちにいる。

 

「差別は今も続いていて、衝撃的だったのは、『私は水俣病患者を軽蔑します』という内容の子供の作文がコンクールで入選しそうになったことです。賠償金目当てに水俣病だとウソをつく人たちがいる、と、親から聞いたんでしょう。

 

『水俣病はもう終わったのに、昔のことでお金欲しさにウソをつくなんて許せない。私は水俣病患者を信用できません。水俣病だと言っている人たちを軽蔑します』という内容なんです。結局入選は食い止められましたが、そういう作文が入選まで行ったことがショックでしたね…」

 

大澤忠雄さんはそう言って、目を伏せた。「断絶」を越え、「協力」に踏み出す勇気と知恵。この2つが、私たちには今こそ必要なのではなかろうか。

 

私の前に希望の女神が現れたのは、そう思った矢先のことだった。

 

 

 

●『半世紀の旅』⑦  <4> 楽しい引力

 

 

車を運転しない忠雄さんと私を、夕方の資料館まで迎えに来てくれた菜穂子さん(忠雄さんの娘さん)は、30過ぎとは思えないほど若々しく可愛らしい、やわらかな雰囲気の人。初めての水俣で出会った彼女は、私に大きな未来へのヒントを与えてくれた一人だ。

 

 

「以前仲間たちで、東京から大好きなバンドを呼んで、水俣でライブイベントをやったんです。バンドとの交渉、チラシづくり、会場づくり…全部自分たちでやってほんとに大変だったけど、勉強になったし、すごく楽しかった。人手が足りなくてボランティアを募集したら、水俣病関係のイベントではなかなか出会えなかった、環境庁やチッソの若者たちも参加してくれたんです。

 

父にしてみれば敵のような人たちですが、一緒にチカラを合わせて働いて、打ち上げではみんなでいろんな話をしました。今もよく集まって食事したりするんですよ」

 

「うわ~そうなんだ! チッソの人とは、水俣病の話もするの?」

 

「することもありますよ。でも若い人たちはもう、昔のことにとらわれてはいませんね。みんな、これからのことを考えてます。ああいう過去を持つ会社に入った自分が、いま何をするかだ、って。話していても面白いし、ちゃんとイロイロ考えてるし、がんばってる、いい人たちですよ」

 

忠雄さんは菜穂子さんの弾む声を複雑な表情で黙って聞いていたが、娘の明るいエネルギーを誇りに思っている気配も、そっと伝わってくる。

 

三十年前、水俣病で苦しむ人々を支えようと夫婦で京都から水俣に移り住み、常に水俣病患者の立場に立ち、苦労を重ねながら、様々な敵と戦い続けてきた忠雄さん。そんな親の想いを知った上で、しなやかに断絶の壁を越え、つながる喜びを伝えるチカラを持つ菜穂子さん。そんなお二人と車に揺られつつ、私の心はまぶしい光でいっぱいになった。子どもには、親の情熱をこんなふうに受け継ぎ、明るく進化させていくエネルギーがあるのだ。

 

「楽しいこと」には、引力がある。

 

「楽しい引力」をいろんな場面で役立てる知恵があれば、未来はきっと、明るく拓けるに違いない。

 

 

 

●『半世紀の旅』⑦  <5> 「はんのうれん」物語

 

 

農薬を使わぬ自然農業に挑む農家の集まりで、私が受け取った転送メールの発信元、「はんのうれん(反農薬連合)」。

 

大澤夫妻が中心となって取りまとめるこの組合も、欠かせない水俣エネルギーのひとつだ。

 

初めて水俣を訪れた夜、同じ部屋で枕を並べることとなった忠雄さんの妻つた子さんが、電気を消してからポツリポツリと話し始めてくれた物語を、私は忘れることができない。

 

「私たちも今じゃ水俣の人間になったけど、来る前はこんなことちっとも予想してなかったんですよ。とにかく現場へ!ってことでこっちに来ることに決めたけど、最初は2~3年くらいのつもりだったの」

 

学生運動華やかなりし三十年以上前、水俣病の事件を知りいてもたってもいられなくなった二十代の忠雄さんとつた子さんは、「現地に行って、傷ついた人たちの役に立ちたい」という一心で、京都から水俣に移住した。

 

「みかん山を歩いていたら、杉本栄子さんに出会って相談されたの。『農作業していると、家族がバタバタ倒れてく。いくら考えても理由は農薬と化学肥料しかない。でもこれを使わないと農協に買い上げてもらえない。どうしたらいいか……』ってね」

 

海が汚染され漁業ができなくなった漁師たちは、「温暖な地域ゆえ甘夏を作るべし」との政府の指示で、農協の指導のもと、農業にシフトせざるを得なくなった。が、農協の手法は、農薬と化学肥料を使っての作物づくり。最初は仕事に慣れるのが精一杯で、農薬や化学肥料の怖さに気づかなかった彼らも、やがて体の不調とともに、自分たちのしていることに気がついてゆく。自分たちの体が毒でやられたのに、自分たちも毒を使っていたのだ、と。

 

「わかりました、もう農薬使わないでください、って言ったの。私たちが販路を作ります、って。それからはもう必死だった。リヤカーでミカン山から甘夏を積んで港まで下ろして、いろんな店からダンボールかき集めて甘夏詰めて船で京都に送って知り合いに買ってもらったの。

 

当時は宅急便なんてないから、全部自分たちでやんなきゃならなかった。でもそれだけじゃとても足りなくて、トラックに甘夏積んで日本中行商したわ。今思えば、よくマァあんなことできたわねぇ、夢みたい。昔話で恥ずかしいけど、これが『はんのうれん』の始まりなのよ」

 

プロジェクトXも顔負けの、思いも寄らぬ壮大なドラマ。その夜私は、いつまでも寝つくことができなかった。春ごとに届けられる太陽味のあの実は、甘夏という名の、情熱ヒストリーの結晶だったのだ。

 

 

 

●『半世紀の旅』⑦  <6> モンダイの解き方

 

 

今年届けられた甘夏の箱には、「水俣に産廃はいらない!」という文字が刷り込まれている。甘夏サロンの少し前まで市長だった人物が、あろうことか水俣市に、産業廃棄物の処理場を誘致したらしいのだ。

 

多くの市民は激怒し必死でたたかって、結果的に、選挙で新市長が当選。とりあえずこの件はストップされた。が、「あの水俣を落とせば、日本中に産廃処理場がつくりやすくなる」という目論見が消えたわけではなく、政府も企業も、まだこの地をあきらめてはいないらしい。

 

違うカタチでやってきた、同じ根を持つ応用モンダイ。この事件の根本にある「産業廃棄物」もまた、「私たちの生活結果」に他ならず、水俣は「目立つ一例」に過ぎない。「産業廃棄物」は、なぜ出るのか? そもそも、「産業廃棄物」とは何なのか? きっとそんな単純な「?」から、モンダイは解き始まるのではなかろうか。

 

「産業廃棄物」は敵でも怪物でもなく、「人間の営みとその結果」にすぎない。「産業」と「廃棄物」の内容を具体的に解きほぐしてみれば、そのひと連なりの中に、自分の生活が見えてくる。すると「自分にできること」も、次々見えてくることになる。

 

こんなとき私は、コピーライター時代の憧れだった中畑貴志氏が毎日新聞の広告用に書いた名コピーを思い出す。

 

「なんだ、ぜんぶ人間のせいじゃないか」

 

そして昔自分が書いたコピーを、続けてそっと唱えてみるのだ。

 

「生きてるうちに、生まれ変わろう」

 

 

●2006年5月26日(金) はら みづほ

 

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●日々旅日記⑥ 『母の日のうた』 

(風邪引いて声が出ないので、文字でうたいます)

 

母の日だから、母を想おう。
私に命をくれた、母のことを。
母に命をくれた、母のことを。
そして、人類最初の母と、

その母を生んだ、母なる大地の営みを。


母の日だから、母を想おう。
愛しい人たちの、母のことを。
母がいてくれたから、私たち、回り逢えた。
父がいてくれたから、母は母になれた。

 

母の日だから、母を想おう。
身近なモノたちの、母のことを。
服、ごはん、ふとん、家、……
支えられています。あなたのコドモタチに。


母の日だから、母を想おう。
地球のあちこちで生きる、母たちのことを。
たとえ会えなくても、みんなつながってる。
どうか生きていて。すべて糧にして。


母の日だから、母を想おう。
母のやさしさ。母の図太さ。母の可愛さ。母の賢さ。
私たちにぜんぶ、そなわってい
る。
私たちがぜんぶ、受け継いでゆく。


母の日だから、せめて今日は、
すべての母に、ありがとう

母のすべてに、ありがとう。

 

ごめんなさい。

ゆるしてください。

あいしています。

ありがとう。

 

 

●2006年5月14日(日)母の日の夜

 

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●日々旅日記⑤ 『雪の降る街で』

 

 

「寒がりの私が寒さを忘れてウットリ見とれるほど、こちらの雪景色は美しいです」 

 

遅ればせながらの年賀状にそう書いて送った翌朝、その出来事は起こった。

 

美しい雪景色をいきなりぶち壊すかのように、雪の降り積もった純白の地面に、色とりどりの家庭ゴミがぶちまけられていたのだ。

 

我家から歩いて二十秒のゴミステーション。引っ越してきて3ヶ月、そこはいつだって、「この地域の人々はきちんとした生活をしているんだな」と毎回嬉しくなるほど美しいゴミ捨て場だった。それなのに、なぜ?

 

暴力的な光景に思わず息をのみ立ち尽くしていると、ゴミステーションのすぐ向かいの家に住む自治会長さんの奥さんが、裏庭から姿を現した。

 

「おはようございます……これ、一体どうしたんでしょう?」と私。

 

「マッタクねぇ…新しい人たちも越してきたし、カラスも悪知恵がついてきて、引っ張ってぶちまけたのかしらねぇ。あたしも今見つけたの。新しいビニール袋とって来て、入れなおさなきゃね」

 

奥さんはそう言って、家の中に姿を消した。

 

この寒いなか、奥さん一人に片づけさせるわけにはいくまい。

 

そう思いつつ自分のゴミ袋を緑色の二重網の中に注意深く押し込め、白い雪の上にぶちまけられたゴミに、もう一度視線を移す。

 

雪と寒さで凍てついたこの場所においても、それはほのかに異臭を放っていた。いつも思わず深呼吸したくなるほど澄んだ雪景色が、空気ごと けがされている。

 

私はまるで自分の大切な聖地を踏みにじられたような気持ちになって、ぶちまけられたゴミを入れる袋を取りに、自分の家へと きびすを返した。

 

袋を手に再び急いで外に出ると、ますますの降雪。奥さんはまだ来ていない。目の中にまで降り込んでくる雪を両手で払いつつ、私はひとり、ゴミを拾い始めた。

 

みかんの皮、リンゴの皮、リンゴの芯、使用済みテイッシュ……

降り積もる雪に埋もれかけたそれらは、すでにカチカチに凍り始めている。

 

キャンディーの包み紙、スナック菓子の袋、おそうざいのプラスチック容器……

今日は「プラスチックゴミ」の日ではないはずなのに。

 

プラスチックの人形、オモチャのデンワ……

このゴミの出どころは、小さな子どもがいる家庭なのだ。

 

果物の皮以外 生ゴミはなく、ゴミの大部分は、できあいのお惣菜容器やお菓子の袋。

ゴミは饒舌に、出し主の暮らしぶりや人となりを語っていた。

 

考えてみれば、ゴミほど容赦なく人物を映し出す鏡はないように思えてくる。

 

人や企業のクオリティを、資本金や収入ではなく、ゴミの内容や出し方で審査する仕組みを作れば、この世は大きく変わるかもしれない。

 

そう思いつつ、私はハタと、自分のゴミ袋の中身を省みた。

 

焼却ゴミの日の私のゴミ袋の中身は、いつもほとんどが生ゴミだ。自炊しているぶん、生ゴミが出る。

ティッシュなどの使い捨て用品はほとんど使わなくなっているし、紙類はリサイクルに出しているので、生ゴミ以外の燃やせるゴミは、ほとんどない。

 

「水分を含んだ生ゴミは燃やすとき最も石油を食う」ということを、私はよく知っている。生ゴミはコンポストを作って丁寧に処理すれば土に返せる、ということも。以前友人から聞いた山小屋で暮らす人のように、水分をストーブで乾燥させればカラカラに乾いて、石油を食わないゴミになるのだ、ということも。

 

けれど、めんどくさにかまけてそれをしていない今、私の生ゴミだって充分、澄んだ空気をけがす悪臭の一因にも、二酸化炭素を生み出す原因にもなっているのだ。良質な土に生まれ変わらせることができるかもしれない大切な原料を、私はゴミとして週2回捨て、焼いているのだ。

 

そう気づいて顔を上げると、いつのまにか辺りは吹雪。かじかんで動かなくなっている手をこすりながら、私は曲げていた腰をのばし、コートと帽子を取るため、また家に戻った。急がないと、ゴミが完全に雪に埋まってしまう。

 

「雪が溶けたら庭がゴミの山だったの。雪があるときは、なんてキレイなんだろうと思ってたのに、もうホントにショックだったわ」

 

札幌郊外の古い一軒家に引っ越した知人が言っていた言葉が、脳裏に浮かぶ。私は急いでコートと帽子を身につけ、再びゴミステーションへ戻った。

 

「上辺だけキレイなんてイヤだ!この美しい雪景色をニセモノにするなんて、絶対にイヤだ!」

 

「だけどさ、アンタが出したゴミじゃないじゃん。袋を取りに行ったはずの奥さんだって、ちっとも戻ってこないじゃん。なんでアンタ一人が、こんな吹雪の中で他人の後始末をしなきゃならないのさ?」

 

私の中で、2つの声が行き交っている。

 

そうなのだ。ゴミがぶちまけられている光景を見たのは、初めてじゃない。でも、「片づけるヒマなんかないし関係ない。ルールを守らないヤツが悪いのよ!」と眉をひそめて、私はいつだって、その前を通り過ぎて来たのだ。なのに今はなぜ、片づけようとしてるんだろ……?

 

「大好きな雪景色が汚されてるのが、アンタには耐えられない。だから片づけてる。ただそれだけのことでしょ。今までずっと逃げてたことを、今のアンタはやっとやってる。一度くらい片づけたからって、偉そうにしなさんな」

 

胸の奥からそんな声が聞こえてきて、私はなんだかキョトンとした気持ちになった。確かに私は今まで何度も、自分にも動かせる現実を、他人のせいにして通り過ぎてきたのだろう。でも本当はいつだって、どんな行動でも、自由に選ぶことができたのだ。

 

自問自答を繰り返しているうちに吹雪はいよいよ激しくなり、指先までの距離さえ白く煙り始めた。雪に埋もれて凍ったティッシュが氷化してオレンジ色のみかんの皮と合体し、不思議なカタチの2色の氷石になっている。

 

吹雪の中でその “ティッシュみかん石”を取ろうとした瞬間、私はエベレストでゴミ拾い中の、野口健(富士山やエベレストのゴミ拾い活動をしている登山家)に変身した。

 

呼吸さえままならない高地の雪山の中、氷化した様々なゴミを発掘し持ち帰ってきた野口健氏とその仲間たち。彼らはとてつもなく困難な仕事に挑み、今、私がいるのと同じこの世で、現実を着実に動かしている。私なんかよりずっと前から、吹雪の中でたくさんの人がゴミ拾いをしているのだ。

 

そう思ったらがぜんパワーが出てきて、私は雪に埋もれたみかん岩やティッシュ岩を、“手シャベル”でワシワシと発掘。まもなく辺りにはようやく、純白の平和な雪景色が戻ってきた。

 

いっぱいになった2つ分のレジ袋の口を吹雪の中でギュッと結び、可燃ゴミの袋は緑の網の下に入れ、不燃ごみの袋は自宅に持ち帰る。髪も眉毛も雪だらけになったが、胸には太陽が灯っていた。

 

ゴミステーションに行っただけのはずなのに、この朝のたった三十分弱の間に、私は他人の食卓から、自分の未来や過去、はたまたエベレストにまで旅をしたのだ。

 

自分の部屋に戻り、凍った頬や手をストーブの火で溶かしていると、玄関の呼び鈴が「ピンポーン」。

出ると、自治会長さんの奥さんが、「ゴミ、片づけてくれたのね。吹雪いてるから後でやろうと思ってたんだけど……これ私が漬けた漬物。召し上がって」

 

と、小さな袋を差し出してくれた。

 

私のここでの生活は、まだ始まったばかりだ。

 

  1. ゴミ出しのルールを守らなかった人に、そうすべきでないことを理解できるように伝え、

  2. 自分の出している生ゴミを土に戻す方法を調べて実行する。

 

少なくともこの2つの課題が、今日、私の前に現れた。

 

このメールを読んでくださったみなさん、あなたなら、この2つをどう解決しますか?どうかお知恵を貸してください。ご意見、アイデア、心からお待ちしています。

 

●2006,1,31(火)

(この一斉メールには、多くの反響とアイデアをいただき、その後、私はダンボールコンポストを実行しました)

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●日々旅日記④ 『私の中の悪魔』

 

おととい、私は宇宙人になった。

「未知との遭遇」 のように友好的な宇宙人ではなく、地球を植民地支配するためにやってきた、非情で高圧的な宇宙人に。

『先住民族の権利を考えるワークショップ』 で宇宙人に見立てた侵略者を演じたのは、参加者二十人弱のうち、私を含めわずか4名。

だが、圧倒的な武力を持ち、地球人を愚かな生物として見下している4人にとっては、少数派であることなど、へのカッパだった。

“地球人は愚かで未発達な連中だから、話を聴く必要はない” というスタンスで、“地球人を奴隷化し、地球の土地や資源を使って宇宙人のための食料や物を作らせる” のが、我々の目的。

万能武器としてボール紙の銃を渡され、いい歳をした大人たちが大マジメでこんな茶番劇に取り組んでいるのが可笑しくて、私は最初、こらえてもこらえても、笑いが止まらなかった。が、その感覚は次第に、すこぉ~しずつ変化していったのだ。

植民地支配が目的で攻め入った高圧的な宇宙人に、地球人役の参加者は当然反発。


「なんで従わなきゃならないんだよ!」 と反抗的な態度を示す人。

「少し考える時間をもらえませんか」 と時間稼ぎを試みる人。

「一方的すぎて納得できないので、話し合いましょう」 と交渉を持ちかける人。

話し合いには応じない、という設定の宇宙人の高圧的なスタンスは崩れず、大声で文句を言ったり反抗的な態度をとる者は、武器を取り出し、すぐ処刑。

あまりのムチャさに吹き出しそうになる一方で、いつしか私の中にも、悪魔の声が響き始めた。

「まてよ、このまま殺し続けてたら奴隷がいなくなって困るぞ。そうだ、自分が死ぬより、家族や恋人が殺される方が辛いはず。人質を取ろう。そうすりゃみんな言いなりさ」

私以外の宇宙人3名も、どうやら悪魔を宿したらしい。


「若者を人質として拉致し、洗脳して、家族や仲間を説得させよう」
「いや、若者よりリーダーを洗脳して操った方が、一気に大勢が言いなりになるよ」
「こっちの要求をのんだ者順に、利益と権限が多く与えられるようにするってのは?」
「ナルホド、口約束で釣るってことね」

…時間が経つにつれ4人の悪魔はどんどん勢いづき、むごいアイデアは加速してゆく。

「うわ~でもこれ全部、世界で実際に行われてきたことばかり!」 と、私の中のニュートラルな私は、目を見張った。きっと ヒットラーも、こうしてだんだん本物の悪魔になっていったのだ。絶対的なチカラと身勝手さがあれば、きっと誰もが、悪魔になり得るのかもしれない。

「言うとおりに働けば、オマエたちの要求もだんだんに聞いてやる。さぁ、我々のために働いて生きのびるか。それとも、拒否して殺されるか」

最終幕、宇宙人リーダーが一人一人に銃を向けてそう迫ると、ほとんどの地球人(特に男性)は、しばらく黙って考えた末、意を決したように 「拒否します」 と答え、口を真一文字に結んだ。

演技と真実が混ざり合う緊迫した空気の中、意を決した表情で 「拒否します」 と答える地球人たちの顔に、パレスチナで出会った青年の顔がダブる。

「たとえ絶滅しても、僕らはパレスチナ民族の誇りを守る」

あの日、彼もそう言って、キッと口を真一文字に結んだのだ。

 

「死んじゃダメ! 生きよう! 生きていれば、いつかきっとなんとかなる!」

地球人の女性がもう一人の女性にそう呼びかけ、最後に残された2人は生き残る道を選んだ。


私の中の悪魔じゃない私は 「そうだよ!そうだよ!」 と拍手喝采し、悪魔はフフンと、鼻で笑った。


この一見コドモじみたロールプレイングで加害者を演じた私は、外交からケンカまで幅広く役立つ、いくつかの大切なヒントを得た。

私の中の悪魔は、ワンパターンの反抗を繰り返す相手にはビクともしなかったが、丁寧かつ毅然とした態度を貫き、双方に利のあるアイデアを示した相手には意表を突かれ、「ナカナカやるな」 と一目置いたのだ。


まず相手を理解すること。対等な目線で、お互いのためになるアイデアを探ること。対立する人間関係には、ことさらこの2つが欠かせないのだろう。

そして、もう一つの大きな発見は、「誰の中にも悪魔は生まれる」 ということだった。

いじめっこやテロリストは、どんな人の心の中にも生まれる可能性がある。大切なのは、悪魔を追い詰め殺すことではなく、悪魔を人間に戻してあげることなのだ。

どんな悪魔ももともとは、みんな温かな血の通う、人間だったはずなのだから。

 

 

●200,7,27(火) 

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●日々旅日記③ 『足元の宇宙』

 

 

曇り空の七夕の午後、私は輝く星々に囲まれていた。

地元、所沢市の中学校の教室で、一等星のように光る中学生たちの目に見つめられていたのだ。

「六十カ国行ったってホントですかァ~?」

 

遠くの星から声が飛ぶ。

 

「ホントだよ。世界一周するのが、小さい頃からの夢だったの。最初はただの憧れで、ホントにできるとは思ってなかったんだけどね。

 

実はみんなくらいのときに、家族や友達に夢を打ち明けたことがあるの。でもその人たちに 『できるわけないじゃ~ん!』 って言われて、ショックでね、ムリなのかなぁ…と思ってシュ~ンとしたよ。

 

でもね、ずーっと思い続けてたらできちゃった。心の底から思い続けてたら、どんな夢だって必ず叶うんだよ」

みんなの顔を見渡しながらそう言うと、星たちの輝きはいっそう強くなった。


「文化や習慣の違いを通して国際理解を深める」という主旨の授業を頼まれた経緯をさかのぼると、今年の3月までリハビリが必要だった、交通事故に行き当たる。

入院中、めまいで目が開けられなかった私の唯一の楽しみは、ラジオの短い朗読番組。退院後、「人に本を読んであげられるようになりたい」という想いから、近所の図書館でたまたま開かれていた読み聞かせサークルの講習会に参加した。

そのサークルのメンバーに誘われ、老人ホームのボランティアにも参加すると、そこには小中学生を持つママさんボランティアがたくさんいて、「世界の話を子供たちに聞かせてやって!」 と、学校に橋渡ししてくださったのだ。

事故に遭わなければ、めまいで苦しまなければ、地元に輝くこの星々の存在に、私は一生、気づけなかったのかもしれない。

現地写真を見せ、クイズや体験談を織り交ぜながら話を進めると、いろんな声が飛んできた。

間違った答えやヤンチャ坊主のチャチャも、すくい上げてそこから話を展開すると、笑い声とともにクラス全体がキュッとまとまり、星々はことさらイキイキ光る。

家庭で羊をさばくイスラムのお正月に立ち会った時の写真を見せると、ノドを掻き切られた羊の姿に、みんな 「うわぁ~!」 「グロイ~!」 「かわいそ~!」 と目を覆った。写真に向かって、神妙な顔つきで手を合わせている男子もいる。

「そうね、私も最初はなんて残酷なんだろうと思ったよ。でもさ、みんなもお肉、食べるでしょ? 誰かがこういうことをしてくれてるってことだよね?

 

生きてる命たちを、私たちはこうして毎日いただいてる。それを忘れないためにも、この地域の人たちはお正月に、子供も一緒にこの儀式をするの。“いつも命をありがとう。大切に大切にいただきます” って誓うんだね。

ほんとは肉だけじゃない。魚だって野菜だって、みんな一生懸命生きてる命です。それを毎日、私たちはいただいて生きてる。だから いただいた命の分まで、一生懸命生きる必要があるんだね」

そう言うと、星たちは真剣な顔でうなずいた。

「世界には電気や水道がないところもまだたくさんあってね、NGOの人についてアフリカの奥地に行った時は、朝、カップ1杯の水を渡されて、『今日1日、これで洗顔もシャワーも済ませてください』 って言われて、ビックリしました。

そこは砂漠化中の土地で、1年の半分は雨も降らないし、川もないの。だからそこでは雨季に降った雨を井戸にためておいて、やっと暮らしているんです」

 

文化や習慣はその土地の風土に深く根ざしていて、生活ぶりも、資源の有無で大きく変わってくる。

体験談や写真とともに世界の文化や習慣について話し、最後は戦地の写真も見せた。石油などの資源を通じて、私たちも戦争と深く関わっている。戦地で気づかされたそのことを、子供たちにどうしても伝えたかったのだ。

「だから私はね、使い捨てをなるべくやめよう、って決めたの。出かける時は、この3つを持ち歩いています」

そう言って、マイ箸、水筒、買物袋、の3つを見せると、みんな目を見開いた。

「割り箸や、ペットボトルや、レジ袋は、つくる時も捨てた後も、たくさんのエネルギーがかかります。テッシュや紙ナプキンだってそうだよね。リサイクルするからいいじゃん、て思うかもしれないけど、リサイクルにだって、たくさんのエネルギーが必要です。

みんなが使い捨てをやめたら、資源をムダ遣いしなくてすむようになって、ゴミが減るから空気や水もキレイになって、戦争の大きな原因の一つである、資源の奪い合いもしなくてよくなっていくんだよ。

物を大切にすること。できるだけ使い捨てをやめて、例えばこの3つを持ち歩くこと。それは誰でも簡単に、今日からすぐできることです。だからどうか、みなさんも始めてください」

そう言って授業を終えると、星たちから拍手が飛んできた。

“絶望的に思えることも、未来を拓くエネルギーに変換できる。何事もまず、足もとからだね”

事故を経て得たこのご縁に、あらためてそう教わった気がしている。


 

●2005,7,18(月・海の日)

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●日々旅日記② 『2歳の世界』

 


なんでジェームスしかいないの? トーマスはどこ?

二歳児のまっさらな瞳は、夕空の下に停まるオレンジ色の列車たちを向うに見据えたまま動かない。

口をつぐんでいる彼の胸の中には、きっと今、いくつもの疑問があふれ出している最中だ。

我家の近所にはJRの引込み線があり、いつも電車が休んでいる。


大人気絵本 『機関車トーマス』 シリーズの熱狂的ファンである甥っ子が我家に遊びに来たので、散歩がてらふたりで車庫近くまで来てみたのだが、静まり返った車庫の様子に、彼は釈然としない面持ち。

「ジェームス…?」 と言ったきり金網を握りしめ、動かぬ列車群をじっと見つめている。(「ジェームス」 というのは、 『機関車トーマス』 に出てくる赤い汽車のことらしい)


「あっち行く!」

きっと、疑問を解くためにはより近くへ行くしかない! と思い立ったのだ。向こう側へ行こうとして、ついこの間までヨチヨチ歩きだったはずの足が、なんとグングン金網をよじ登り始めた。おいおい、いつのまにそんなことできるようになったわけ? ちょっと待ってよ~!

リンリンリンリ~ン!「何してんのぉ~?」

グッドタイミングで、新たな登場人物が出現。金網をのぼりかけていた遼太郎の注意がベルの音に向けられた隙に、急いで抱きかかえ、地面に降ろす。


「電車を見てたのよ。あなたは何してるの?」


「向うの方からね、グル~って自転車で走って来たの」

初めて見る女の子。七歳、小学二年生だと言う。


「あのね、今日の夜ね、パパ帰ってくるの。おみやげ買ってきてくれるって!」

少女は何の脈絡もなく、私と遼太郎に向かって突然そう言った。全身から、嬉しさがほとばしっている。彼女にとって “パパの帰宅” は、見知らぬ人にまで思わず話したくなるほど嬉しい事件なのだ。

遼太郎は車庫探検の野望をすっかり忘れ去り、今度は自転車にまたがる女の子を不思議そうに見つめている。

「遼太郎、お姉ちゃんのパパね、今日おみやげ持って帰ってくるんだって。いいね~」
「お姉ちゃんじゃないもん! “のぞみちゃん” だもん!」

矢のように ビュン! と飛んできた反論に、遼太郎も目を丸くしている。もしかしたら “のぞみちゃん” には弟か妹がいて、いつも “お姉ちゃん” と呼ばれているのかもしれない。そして彼女はそれにウンザリしていて、単身赴任か何かで久しぶりに帰宅するパパに、「のぞみちゃん」 と呼ばれるのを、心待ちにしているのかもしれない。


遼太郎もつい最近、お兄ちゃんになったばかり。今は毎日、小さな弟にママを取られたような切なさを体験中だ。彼女をじっと見つめているのは、自分が持っているのと同じ種類の気持ちが見えるからなのだろうか。


のぞみちゃんがベルを鳴らしながら 「バイバーイ!」 と行ってしまうと、2歳の目はまたすぐに、新しい旅人を見つけた。

「ニャンニャン!ニャンニャン!」

え? ネコ? ドコにいるの?

遼太郎が駆け寄ると、路上に停まっていた車の下から、小さな黒猫が飛び出してきた。大人と子供の視界の違いを思い知る。同じ場所に立っていたのに、私にはネコなどまったく見えていなかった。大人には見えないものを、子供はきっと、毎日うんと見つけているのだろう。

ネコが走り出すと、遼太郎も走り出した。ついこないだまでオムツの重さでひっくり返りそうになりながらつかまり歩きをしていたはずなのに、もう金網もよじ登れれば、私が息切れするほどのスピードで走ることまでできるなんて…!


絵本とは別の顔で眠る八台のジェームスを観察し、“のぞみちゃん” の夕陽色の気持ちを見つめ、青い眼の黒猫を全力で追いかけ、古ぼけた小さな赤鳥居の向うに棲む神様に息を詰めて手を合わせ、初めての図書館で絵本を借り、この日、二歳九ヶ月の心と体は、ママもパパもいない世界を全力で旅した。そしてその帰り道、彼はまた一つ、私には見つけられなかったものを発見したのだ。

「リーンリーンて、何だろねぇ?怖いねぇ…」

何のことを言っているのかわからぬまま適当に相槌を打って歩いていると、つないでいた手をグイと引っぱり、遼太郎はついにその場から動かなくなってしまった。不安気な顔で、全身を耳にして立っている。

「リ~ン…リ~ン…」

本当だ。よーく耳を澄ましてみると、夕風に混じって、どこかから かすか~に 鈴の音が聞こえてくる。

 

いったいどこから? 何の音?

春の夕暮れの中、手をつないだ大きい影と小さい影はひとつになって立ち止まり、まるで夢の中で鳴っているかのようなかすかな音色に、ひとときじっと耳を澄ませた。

まわりを見渡しても音源の方向さえつかめず、音の正体は、結局いまだにわからない。遼太郎は何度も「怖いねぇ…」と言ったが、私にとってはうっとりするような、儚く美しい鈴の音だった。


小さな子には大人に見えないものが見えたり聞こえたりするというから、もしかするとあの音も 「この世」 の音ではなかったのかもしれない。遼太郎の気持ちに寄り添ったあの夕暮れ、私は確かに、ずっと忘れ去っていた “二歳の世界” に、ひととき舞い戻れたような気がするのだ。

 

見たことのない風景を見、聞いたことのない音を聞き、知らなかった人々に出会い、たくさんの “初めて” を全身全霊で呼吸した遼太郎は、帰宅後コトリと眠りに落ち、約一時間後、目を覚ますとき、夢とうつつの間でしばらく大泣きした。

それはまるで、一気に詰め込まれた新しい体験を自分の中に定着させるための儀式のようだった。

取り込んだ新しい要素をいったん寝かせ、大声をあげて泣くことで不要物を洗い流し、今後の人生にとって必要な要素を、しゃくりあげるたびに体内に染み込ませてゆく。

 

染み込んだ多種多様の要素たちは少しずつ熟成され、やがて彼だけの味や香りを放ち始めるのだろう。

人間はみんな、きっとそうやって、だんだん “自分” になってゆくのだ。どんな経験もぜんぶ、世界に一人だけの “自分” を形づくっていくための、かけがえのない原料なのだ。大声で泣く遼太郎を見て、そんなことを思った。

 

遼太郎、のぞみちゃん、そして誰かの子供である世界中のみなさん、

子供の日、おめでとう!


甘いことも、苦いことも、辛いことも、酸っぱいことも、ぜんぶをじっくり栄養にして、
今後も私たちがみんな、それぞれ大きくなってゆけますように…!

 

 

●2005年5月5日(木) 

 

 

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●日々旅日記① 『桜の下のインド』

 

 

よく晴れたお花見日和のその日、
国立(くにたち)の大学通りに立つ一本の大きな桜の木の下は、インドの街角になった。

「これからインドの紙芝居を始めますよ~ 見てってや~!」

 

長髪をうしろで結わえたアイヌ人スタイルのおっちゃんの声に合わせ、桜の木も花びらを散らし、散歩中の人々をふところに招き入れている。

思いがけないお楽しみに誘われて、地面に敷かれた布の上には、
通りがかりの老若男女約四十人が腰をおろした。

おっちゃんの足元には、何本もの巻物。
着物の反物のようなそれをクルクルクル…と開くと、筆でのびやかに描かれた色とりどりの不思議な絵。反物ではなく、絵巻物だったのだ。

「くらぁ~い、くらぁ~い、まぁーーーーーーーーっっっくら闇の晩じゃった…」

 

クルクルクル…と絵巻物を解く彼の手元と口から紡ぎ出されるのは、“もともと一つだった天と地がケンカしたときにできた亀裂が「この世」で、「この世」が今も存在するのは、亀裂の間で押しつぶされそうになりつつも、一匹のナマズが天と地を分かち続けてくれているから”

という物語など、不条理だけどどこかしら哲学的な、胸きゅん不思議ストーリーの数々。

明るい笑いのあとにポッと切なさが灯るような語り口に空気ごと取り込まれ、気づけば桜の木の下は、おっちゃんワールドに染まっていた。

「これがホンモノのインドの紙芝居です」


そう言って開いた小さな絵巻は、思わずそっと撫でたくなるくらい不器用な温もりに満ちた手作り品。ガンジス河の沐浴で有名なヒンドゥー教徒の聖地ヴァラナシ(ベナレス)で、今から二十年前、この絵巻紙芝居とその語り手に出会ったそうな。

帰国後おっちゃんは、自分で絵を描いて絵巻物をつくり、インドの昔話や、世界の民話などを日本語で語る「インド式紙芝居テラー」になった。


「たとえばナ、日本ではウンコしたら紙で拭くけど、インドでは手ェで拭くんよ。

 

インドのトイレには水が入った缶カンが置いてあってな、まずその水で左手をしめらせて、オシリ拭いて、その水で手もオシリも洗って流す。

 

そう考えるとなぁ…ふだん “当たり前” と思ってることや、“こうでなくちゃあかん!” と思ってることなんて、ホンマはどっちでもえーんちゃうやろか? と思えてくる。

 

たった8時間飛行機で移動しただけで、それまで “正しかったこと” が、クルリと “間違い” になったりするんや。

 

悩んでる原因も、いがみ合ってる理由も、別の場所に移動したら、“どーでもええこと” かもしれんのや」

 

 

おっちゃんはそう言ってみんなを見回し、父親のような顔で笑った。


宇宙の中の、銀河系の中の、地球という惑星の表面にポチンとある日本という島の、東京の、国立市の路上に根を張る一本の桜の木の下で、その日、インドと、おっちゃんと、たまたま集った四十人の人生は、陽の光と桜の香りに包まれながら二度とないであろう組み合わせで めぐり逢い、調和した。

 

世界はいつも万華鏡で、「正しいこと」 はクルクル変わるけど、どこへ行っても、どんな時代も、「うれしいこと」 は、そう変わらない気がする。

「うれしいこと」を基準にしたら、世界はもっと、
のびやかにひらけるのかもしれない。


「うれしいこと」を世界中に灯しているこのおっちゃんの名は、東野(ひがしの)健一さん。神戸生れの六十歳。

 

四十歳で会社を辞めて絵描きに転身。その年にインドの絵巻紙芝居と出合い、その後 「ポトゥア」 と呼ばれる絵巻物師として、大ホールから道端まで、日本を含む世界のあちこちで、絵巻紙芝居を演じてきたそうだ。


インドの智恵と空気を出前してくれる東野さんのパフォーマンス、チャンスがあったら、ぜひともご覧くださいね。

●2005年4月22日(金) はらみづほ

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