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新年の新念 ~「問い」の答え


昨日は新月で旧正月。 節分、立春、旧正月…と一日ごとの節を経て、いよいよ日本の新たな暦が始まりましたね。あけましておめでとうございます!

昨日、82歳の母は、最悪の事態も予測された3時間におよぶ手術をおかげさまで無事に乗り切り、まだ全身麻酔が残っていて朦朧とはしているものの、なんとか目を開けて私たちを見ることもでき、

「お母さん、みづほだよ!わかる?」と話しかけると、目は閉じたままの顔で口を発声練習のように大きく動かしハッキリと、「みづほ、わかるよ。ありがとう」と返答。

カラダは動かんがアタマは冴えてるゼ!と言わんばかりの母らしい表現をしてくれて、ホッとしました。

でも、10年以上前からパーキンソン病をわずらっている母は、体が思うように動かないだけでなく、一つの文章を完結させるまでに何度も言葉が詰まってしまうので、話している母も聴いている私たちも大変。

おまけに母はささやき声しか出ないので非常に聞き取りにくく、母の口元に耳をくっつけ全身を耳にして集中しないと言っていることが聞き取れずお互いヘトヘトだし、もう目もあまり見えないので、三重苦もいいところ。この状態がもう何年もつづいているのです。

去年11月に家で転んで大腿骨を骨折し、手術でボルトを入れ入院しながらリハビリを重ねてやっと歩けるようになってきたところで、病室でまた転び再骨折。

今回の再手術で人工関節が入ったものの、「骨盤も他の骨もかなりもろくなっているので、人工関節を入れた部分以外のところからまた骨折する可能性があります」と医師に宣言され、

想定内ながらにもショックを受けつつ、まるで大地震によって平地からグォ~ッと山が隆起するように、これまでに何度となく胸に湧き上がってきた問いが、また湧き上がってきました。

それは、「こんなにまでして、母はなぜ生きているのか?」という問い。

「起る全てに意味がある」と信じている私は、母がこんな状態になってまで生きている意味がわからなくて、その意味がわかって腑に落ちれば心から納得して母と向き合える氣がするけれど、わからないから宙ぶらりんでやりきれない氣持ちのまま、この1年半ずっと答えを探し続け、今日に至っていました。

先日ワラをもすがる思いで聴きに行った「在宅医療と看取り」というタイトルの講演会で、それらを専門にする医師(まるクリニック院長・丸山善治郎さん)が、

「その人の人生を物語としてとらえて向き合うことが、介護される側にとってもする側にとっても大切」

と教えてくださって、私にとってそれは抱えてきた問いへの一つの大きな答えとなり、

「人は死ぬまで物語を紡ぎ続けることができ、どんな結末を描くことも可能なんだ」と思ったらようやく腑に落ちて希望が湧いたのだけれど、

それでもやっぱり、再々骨折の可能性を予告され、幼い頃NHK合唱団で歌っていたことや、張りのある明るい声で銀行窓口をつとめていたことが自慢で、声が出なくなるまでは歌うのが大好きだった母が今は話すことさえままならず、

あんなに好きだった旅も幻だったかのようにできなくなって、旅どころかトイレに行くことすら難しいのだと思うとやりきれなくて、

「なんのために?なぜこんなにまでなって生きているの?なぜ死ねないの?」と次から次へと波のように問いが迫ってきて…

波に任せて口から吐き出してしまいそうになるその問いをゴクンと呑み込んで、術後二度目のおかゆや果物を食べさせ、歯を磨かせ、話しかけたり片付けたり体をさすったりをいつものようにやっていたら、おなかがすいてクラクラしてきたので、「そろそろ帰るね」と母に伝えると、「さびしいから帰らないで」とのこと。

いつもなら「そうか…じゃあもうちょっといるね」と笑って言ってきたのに、今日はムカッとして、「こんなにやってるのにまだ足りないの?少しはこっちのことも考えてよ!」という叫びが胸の中にこだましまくり、

「なんで生きてるの?こんなにまでなって、なんで生きてるのか教えてよ!」と、あの問いが心の中で津波のように立ち上がってきて何も言えず、目も見れなくて。

黙ったまま問いをため息に変えて外へ吐き出し、「夕方また来るから。それまで少し寝て」と、蛇口をキュッと締めるように言い放って病室を後にし、曇天の外へ。父と黙って駐車場に向かい、車に乗り込みました。

車に揺られるうちに心に渦巻くものをとどめておけなくなってきて思わず、「お母さんにさびしいって言われてムカついてるようじゃまだまだだよね~ でも、こんなにやってるのに足りんのかい!って思ってムカついちゃったんだよね~」と、わざと明るく言い放つと、父は悲しいくらい優しい声で、

「お母さんは自分がしんどいから、もう人のことまでかまってられないんだろうなぁ…」と一言。

「そうだよね…」と言って、いったん氣持ちが落ち着いたら、ふいに幼い頃の自分と母のワンシーンがよみがえってきたのでした。

それは、私が3歳くらいのとき、昼寝して起きたら家に誰もいなくてビックリし、ひとりぼっちで泣きじゃくっていた場面。

急にバタン!と玄関のドアが開いて、母が買物袋をほっぽり投げて慌ててこちらに駆け寄ってきて、泣きじゃくる私を抱きしめ、「ごめんね、ごめんね、みづほが氣持ち良さそうに寝てるから、その間にちょっと夕飯の買物に行ってたの。起きる前に帰ってこようと思って急いだんだけど、起きちゃったんだね、びっくりしたね。あ~涙がしょっぱいしょっぱい」と言って、母が私に頬ずりした場面でした。

抱きしめられて、頬ずりしてもらって、私は激しく泣きじゃくりつつも、不安で怖くてさびしくてこわばっていた体と心がだんだんあったかくなっていって、やがて波が引くように、とっぷりと安心したんだったなぁ…

今、お母さんは、あのときの私みたいなのかもしれないなぁ…

不安で、さびしくて、ひとりぼっちで置き去りにされたような氣持ちで、誰かに抱きしめて頬ずりしてもらいたいのかもしれない。 「一人じゃないよ」「一緒にいるからだいじょうぶだよ」「あったかいね」…と言ってもらって、抱きしめられて安心したいのかもしれない。

誰かにって誰に…?

そりゃあ私しかいないでしょ!

看護婦さんでも、父でも、弟でもダメで、それをできるのは、お母さんがそれをしてほしいのは、やっぱり私しかいないでしょ!

……そこまで自問自答して、ハタと氣づきました。

「いや、私自身がそうしたいんだ。お母さんがしてもらいたいんじゃなく、私がそれをしたいんだ」って。

何のために?

お母さんをまるごと受け容れるために。

幼い私が言ってほしかった言葉を私自身が母に言い、してもらってうれしかったことを私から母にお返しして、若かった母の未熟さを許し、その奥で貫かれていた大きな愛を体感し、やがて母を超えていくために。

……そう思ったら、「こんなにまでなって母はなぜ生きているのか?」というでっかい問いの氷山が、シュワーッとキラキラした氷のつぶつぶになって、光の中に溶けていく感じがしました。

母がこんなにまでなって生きている理由のひとつはきっと、私にとって尻切れトンボのまま宙ぶらりんになっているさみしい穴ぼこだらけの母との物語を、私にまぁるく完結させるためなんだ。

私にその時間を与えるために、母はこんなになってまで、死なずに生きてくれているんだ。

そう思うと腑に落ちて、感謝が湧いてきて、たとえぜんぶ私の思い込みだったとしてもいいじゃないか、やってみようじゃないか、って思った。

幸い、「照れくさい」とか「いつか」とか言っているヒマはなくて、すぐやらないともうできなくなってしまうから、

幼い私がしてほしかったこと、「子育てするならこんなふうに」と思うこと、それを母にやってみよう。母とは思わず、小さい頃の私だと思ってやらせてもらおう。

そうしたら、私の世界は変わるかもしれない。 私自身が、変われるかもしれない。

できるかな…どうだろな…と、思った端からへっぴり腰になりつつも、旧正月が明けようやくこんな氣づきを得るに至った介護生活1年8ヶ月目の自分にやっと「第二章」の幕開けを感じ、なんだか晴れ晴れした氣分の旧正月の二日目です。

この通り勝手な自問自答で上がったり下がったりのおめでたい私ですが、今年もまたまた引きつづき、何卒よろしくおつきあいくださいませ…!


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